日記
何かに怯えて生きているのが今だとすれば、未来は開けているような気がする。
怯えている、というのは得体のしれない感情である。
恐怖という感覚でもないし、クラクラと目が回るような感覚でもない。
普段を生きている中ではあまり感じないが、ふとした時に心の隙間から漏れ出してくるかのような、感情であり、感覚でもある。
その「怯えている」という感情を確かに頭で分かった時に、私はそれに埋もれていくことがある。
怯えていることへの疑問(何に怯えているのだろうか)、怯えている自分に対する発奮のような何か(力を発揮せよ、目覚めよ)...
そのような種々の怯えに付随する様々な感に、埋もれる。
しかし、私はそれは未来への扉だと考える。
怯えるという意識に埋もれることは、自分を正しく認め、理性で以て考えることができているからである。
それに気づくことができるならば、あとは自分を変えていくだけだ。
その繰り返しも、また人生のような気がする。
夢、色彩、時間
表題の「夢」については、梨香子さんが今日のイベント(1st EP『Principal』発売記念Birthdayイベント)にて語った一言から来ている。
「夢はひとつじゃなくていい」
この言葉こそ、自分が今まで感じていた逢田梨香子という人間が持つ、現時点で示すことのできる唯一の「決意」ではないだろうか。
今回は、Birthdayイベントから感じたことやEPついてを、大まかに「夢、色彩、時間」に分けて話していきたいと思う。
今日のイベントは、僕にとって全てが新鮮だった。
「桜内梨子役」としての「逢田梨香子」は、幾度となく見てきた。
しかし、その「役」というある種のベールを脱いだ、一個人としての「逢田梨香子」に触れるのは初めての経験だった。
単独のイベントに参加したのは、今回が初めてだ。
「まるごとりかこ」のイベントはひとつも行けなかった。
ようやく行けた、今回のイベント。
自分が特に印象深いシーンを、思い出していこうと思う。
まず、「夢はひとつじゃなくていい」という言葉。
これは、『Principal』に収録された「FUTURE LINE」の歌詞について、進行の松澤さんと話している時に、梨香子さんから発せられた言葉だ。
ここから叶えたい夢を 数えながら踏み出そう
夢、という言葉にはある種「魔力」があると思っている。
例えば、「私の夢は歌手になることです!」と言ってみたり。
それは他には変えがたいもの。
自分の憧れる存在であり、なりたいと願うものであり、こうありたいと想うものでもある。
梨香子さん自身、声優アーティストとしてデビューしてから、今の状況に至るまでに「気持ちが追いついていない」時期があったと言う。めまぐるしく周囲の環境が変化していく中で、どのように振る舞えばいいのか。
そういう話題は、こと逢田梨香子というシンガーに限った話ではなかろう。
夢を目指す誰もが一度は経験することである。
その中で、「夢」という言葉に触れた時にこそ、自分の心にある、ほんの僅かな「想い」が溢れ出るのではないだろうか。
人間というのは時に、「自分はこうなりたい」と想う気持ちが「だからこそ、自分は今こうあらねばならない」と自身にそれを強いる気持ちに変わってしまいがちである。
それは、視野狭窄を招くものだ。
梨香子さんがそれを取り除けたのは、ことに「夢」をどのように解釈するかの手続きによってではないだろうか。
「数えながら」
「夢を数える」という言葉が、「夢はいくつも持っていい」という発想につながる。
「無色透明」と表現した今の自分に、どう彩りを与えるのか。
決してモノトーンにはならず、カラフルでいいのではないか。
そうした「視点」を与えてくれたという意味において、さすが畑亜貴だと感嘆せざるを得ない。
次に、楽曲ごとの色について。
梨香子さんは、「Principal」の楽曲から色のイメージを連想させた。
今回のイベントでも、楽曲に対する「色」のこだわりというのが所々で見られた。
たとえば、「Premium Live」における「アズライトブルー」。
「アズライトブルー、っていう色があったらいいのに」
アズライトブルーとはどのような色なのか。
「AZURITE BLUE」というのがアルファベット表記だが、「AZURITE」は「AZURE」、つまりフランス語で「空」という意味を基にしている。
だから、アズライトブルーというのは「空のような青」と言い換えられるだろう。
「空のような青」という意味は、アズライトブルーの歌詞にも表れている。
果てしない空を羽織る
夜明けの鳥のように 羽ばたけるなら
恐れることなく どこまでも
どこまでも青く 澄み渡ってく想いを見つけたら
雨はもう 上がるから
こうした歌詞は、梨香子さん自身の今抱える「迷い」や「葛藤」を振り払うための、梨香子さんに向けたエールともなる曲ではないかと考えた。
それがひいては一般性を持ち、あらゆる人の心に響く曲になる。
なぜなら、その「迷い」や「葛藤」が普遍性を持つからに他ならない。
「迷い」や「葛藤」を「くすんだ心の奥底にある色」と表現しているのか、この曲に関して梨香子さんはこう語っている。
もともと、歌詞もタイトルも今とは違いました。この曲を頂いた時に私の中で青、水のイメージがありました。いくつかある候補の中で出てきたタイトルが「アズライトブルー」で、爽やかな青ではなく、ちょっとくすんだ心の奥底にある色というイメージなんです(1)。
ORDINARY LOVEは「初めていただいた曲」ということで「無色→白」、FUTURE LINEでは「初夏」から「淡い黄色、オレンジ」を連想させた。
こうした独特の感性というのは、間違いなく梨香子さんの強みと言っていいだろう。
また、曲順にも梨香子さんは「色彩」を取り入れている。
1曲1曲のカラーがわかりやすかったので、決めやすかったです(2)。
「RARARAdio」でのそうした色の話でいうと、(今回は出てこなかったが)「I will」については「浮かぶ水面→限りなく無色、掴めない色」と、「アズライトブルー」では「炭酸水」という表現もしていた。
「I will」に関してはバラード曲ということもあり、梨香子さん自身不安もあったという。
バラードは表現力がないと歌うのが難しい、すごく大人っぽい雰囲気ですし、私に歌えるだろうかという不安が大きかった曲です。でも、歌詞が付くことによって、ここに辿り着くまでの自分を思い出させてくれた、身近に感じることが出来た曲なんです。すごくグッと来た1曲です(3)。
後半の部分について、この歌詞に注目した。
あの頃とは違うから
いま守るべきモノがあるから
過去のことを全て「あの頃」という言葉に内包し、「いま」と対比させて考えているように感じられる。
「過去」と「いま」という時間の対比にスポットを当てることで、自分の足跡を振り返りながらもこれから先へ進んでいきたいという、よりこの曲が身近に感じられるポイントがあると考えられる。
それが、「限りなく無色」と「0地点の現在」を表現するに至った理由ではないだろうか。
「ORDINARY LOVE」は先ほども述べたように、梨香子さんが初めて受け取った正真正銘の最初の曲である。
この曲は「川柳少女」のタイアップ曲というのもあり、おそらくキャラクター同士の関係性を歌詞にしていると思うが、同時に梨香子さんと支える人達を描いた曲でもあるように思う。
ありきたりな 日常でさえも
あなたとなら 羅きだす
たとえなにが起きたとしても
たまに傷つき傷つけても
息が触れあうほど近くで
何気ない日を信じていて
「ありきたりな日常」という言葉は、めまぐるしさとは真逆の関係である。
ただ、梨香子さんの声優アーティストとしての活動が継続していく中で、きっと「ありきたりな日常」がいつの日か訪れるのかもしれない。
それは本来の意味での「姿」を呈していて、しかしそれ自身がきらめいているわけではない。
支える人との距離感を大切にする梨香子さんにとって、その距離感を「息が触れ合うほど近く」と表現し、それらによってきらめく自分の何げない日常から溢れ出る「愛」を表現しているのではないだろうか。
それは、初めて受け取った歌詞であるからと同時に、やはり梨香子さんにとっては「無色透明」そのものだからであろう。
そもそも色彩というのは、「眼に映る」からこそ認識できるものであり、それはまた「現実」が映るからこそ、色彩が加わるのだと考えられる。
しかし、移りゆく現実は時として「迷い」となり、自分をがんじがらめにしてしまう。
そのがんじがらめからの解放、つまり、今の自分は何もないが「君」がいれば自由になれる...と歌ったものが「君がくれた光」である。
繋いだ この手のぬくもりが
いつだって 迷い 溶かすから
これから どんな明日が来ても
ずっと 忘れない 今を
また、この曲の最後の歌詞に注目したい。
あの日とよく似た 風が今日も 未来へ翔ける
「風」というのは道を選ばない。
これが、自分の中では「自由」の象徴だと解釈できた。
ただ、今回この曲が披露されることはなかった。
この曲が、「今現在」から少し離れた「未来」を意識した歌だからだと思う。
立ち止まることもいつかあるかもしれないが、その時に「君」という存在が「光をくれる」ことで自分をまた突き動かし、自由へと向かわせてくれる。
それについて梨香子さん自身は、こう語っている。
この曲は迷いもある中で、どう進んでいかなければいけないのか、進むべき道がしっかりとある曲なのかなと思います(4)。
そうした意味を考えると、「色彩」のみならず、「Principal」というEPはそれが持つ「時間軸」の長さ、「重厚性」をも読み取ることができるのではないだろうか。
話を転じるが、今回は歌だけではなく「逢田梨香子」といういち声優の姿も見ることができた。
それが「電子プレリュード」である。旧知の仲である北原沙弥香さんと共に演じたこの物語。
ストーリーもさることながら、梨香子さんの声の出し方、表情、目線、身体の使い方。
そうした細かい部分に特に注目して見ようと考えた。
声優は、喉を使う仕事であるが、喉だけを使うのではなく、身体全体を使うものであると再確認できた。
特に今回の「電子プレリュード」は起承転結がかなりはっきり描かれ、北原さんも梨香子そんも、場面場面で移り変わる登場人物の心情を声だけでなく「オーラ」を使いながら表現していったように感じられた。
「怒り」の心情や「悲しみ」の心情、「喜び」の心情。
様々な「自己」を短時間に使い分けるというのは朗読劇ならではの難しさ、醍醐味である。
今回、特に梨香子さんは朗読劇に初挑戦だという。
初挑戦だと思えないほどしっかりと「自己」の使いわけが出来ており、ここに梨香子さんの声優としての能力の高さをうかがえた。
この初挑戦の舞台に立ち会えたことも、思い出の一つだ。
生のイベントだからこそ感じられる空気感や想いがある、と常々思っている。
その中でも今回は特に自分の好きなアーティストのイベントということで、『Principal』に対してどう向き合っているのか、何を考えているのかという点について深く知ることができた。
特にメーキング映像に関してはレコーディングの現場やPV撮影の現場での、梨香子さんの「素顔」を垣間見ることができた。
「FUTURE LINE」の歌詞に向き合っている時の梨香子さんの表情は真剣そのものであって、「何かここから生み出せないか」と模索しているような表情に見えた。
そういった数々の「姿」を間近に見ることで、自分はより梨香子さんが身近に感じられるようになった。
1st Singleの発表もあり、これからどうなっていくのかは分からない。
しかし、梨香子さんなりの「様々な夢」に向かっていってほしいと改めて願うような、そんなステージであり、梨香子さんの誕生日の1日であった。
そして何より、これからの梨香子さんの活躍にますます期待が膨らむ1日であった。
注:(1)https://www.musicvoice.jp/news/201906190122121/
(2)同上。
(3)同上。
(4)同上。
オタクの帰属意識及び共同体としての善について
唐突だが、自分は逢田梨香子さんを推している、と思っている。
しかし、イベントなどには外れたり日程が合わなかったり、色々な事情で一度も現地参戦が叶っていない。
と感じながら下書きしていたのだが。
ところが、なんと誕生日当日のBDイベに当選してしまった。嬉しい限りである。
間隔を空けて何回かに分けて書いていたから、最初に書いていた時にはそのような話はなかった。
しかし、本題としては行けるのか行けないのか関係ないところなので、まあいいだろう、ということにしておく。
閑話休題。
時として、自分は「本当に推していると言えるか?」と疑問に思うことがある。
もちろん、推していないと考えているわけではない。ただ、「帰属していない」という意識が自分の中に存在している。
こうした感覚の深層に出来る限り迫っていきたいと思い、今回は「帰属意識」と「共同体としての善」について考えていきたい。
とはいえ、そこまで堅いものではなく、あくまで「オタクの界隈について自分が思うこと」という感じであるから、そこまで肩肘張ってる記事ではないと付言しておく。長かったらごめん。
そもそも、好きなものを1人で推す、というのは辛いことである。
自分の中にある、「自分の推しはこんなにいいところがある」という想いを表現する場所がない。あってもツイッターだ。
ツイッターという環境は、「何もしなければ」孤独である。バーチャルであろうがリアルであろうが、孤独というのは、環境と自分の間にある種の「接続地点」がないことに起因している。
噛み砕いて言えば「孤独は自分が作り出すもの」であろうか。
自分を「孤独」と感じるのは、思うに「他者と自分の関わりがない」時である。
かつて「人間とは社会的動物である」とアリストテレスは言った。
記事に曰く、
人間はその本性により共同体を形成し、さまざまな仕事を分業して生きる社会的(ポリス的)動物であることを示す。ポリス(都市国家)は、人間の生活を満たす完全な自足の条件をそなえ、人間の生活の自足性を最高度に実現した共同体であり、人間は本質的にポリスの成員として生きる動物である。そしてこのポリスは善を成し得ることを目指し、ロゴスによって成し得ているため、ミツバチなどの単純な共同体ではなく、人間特有の善を目指す共同体として特別的な意味をもつ。
「オタクの界隈」を、ここでは単に「共同体」と言い換えてみようと思う。
この場合、人間の本性とは「善を目指すこと」である。では、共同体における「善」とはなんなのであろうか。
ここで言う、「共同体」において善となることは、一言で言って「推しを広めること」ではないだろうか?
Aqoursが「みんなに知られてほしい」とするのはそれが「善」だからである。善いことであると自らが思っていて、誰もそれを疑わない。
みんなに知られること、それは良さを知られること。
知名度を上げることで、世界における自らの存在価値を確かめ合い、名声を手に入れることでその価値を高めていく。
ここに横たわる意識が先ほど述べたような「善」である。
例えば、リーダー役の伊波杏樹はこう綴っている。
この善を目指すことこそ、共同体の役割であり、ポリス、広く言って共同体において、その成員としてのオタクには存在価値が十二分にあるだろう。
ミツバチなどは基本的に本能で生活をしていて、生まれた時からカースト制度が存在している。ワーカーと呼ばれる働きバチは死ぬまで女王バチに使える存在である。これがミツバチでいうところの共同体である。
このミツバチの例と人間の例は好対照で、人間という他の動物に比べ極端に己の意識を持つ動物は、共同体の中でさまざまな個性がありながらも、それぞれが絶対的に尊重されるべき個として互いに協力し合いながら生きている。
話を戻すが、この共同体の持つべき役割というのは、オタクの自足性、すなわち「満足すること」、「必要なものを自分で間に合わすこと」を満たすものである。
十分性を考えれば、このような自足性が満たされないものが共同体である。
では、ロゴスにより成し得ている共同体とはなんだろうか。
ロゴスというのは「論理」という意味である。ここのページに明るいので、ここから少し紐解いていく。
https://information-station.xyz/6523.html
記事に曰く、
古代ギリシアの哲学者であるヘラクレイトスにおいて、ロゴスという概念は、万物を成り立たせている根源的な秩序や理法としての根本原理のことを意味していて、
そうした万物の根本原理を理解する論理や理性といった人間の知性の働きもロゴスという言葉によって語られていると考えられることになるのです。
ロゴスとは、万物の根本原理であり、それを理解する論理や理性もロゴスにより語られる、ということである。
これはヘラクレイトスによるロゴスの説明である。では、ソクラテスによるロゴスの説明とは何か。
論理や理性といった人間の知性が持つ抽象的な働きの他に、人間同士の実際の会話や対話の内に用いられている言葉そのもののことを示す意味においても捉えられていると考えられることになるのです。
ヘラクレイトスが抽象的にロゴスを説明している一方、ソクラテスは具体的な会話や対話に落とし込んでロゴスを説明している。一般的にはソクラテスによるロゴスの方が分かりやすく、受け入れられやすいと思う。
ここまでロゴスの意味について見てきたが、話を戻す。
ロゴスにより成し得る共同体についてだが、要するに「人々が互いに話すことで成立していく共同体」のことである。
つまり、会話という他者とのコミュニケーションの積み重ねが共同体を生むということだ。
そうであるからこそ、会話というのは共同体の形成において必要不可欠な要素であると考えることができよう。
オタク、というより基本的に人間は他者と関わりながら生きていきたいものである。
人間がポリス的動物であるならば、そもそも孤独に生きていくことは不可能である。共同体を人間が本質的に必要としているならば、他者とのコミュニケーションを通じて共同体を形成していきたいと願うことは自然な考えである。
「帰属意識」はまさにここに由来しているのだろう。何か一つのグループに帰属している自分に対して安心感を得る。ここにいれば自分は「推している」という実感が得られるのである。
共同体の成員として自分の存在を確かめようとしている。だからこそ、ある共同体に属さないオタクは必然的に自分の存在を確かめられない。
では、共同体における他者の必要性とは何であろうか。
コミュニケーションとは言うが、実際にどのようなコミュニケーションを取るのか。
当然であるが、「推しについてのあれこれ」である。
あれこれ、というのは非常に意味のある言葉で、あれこれの中には当然自分の知る領域、知らない領域が存在する。
しかし、他者にとってもそれは同じことで、他者にとって知らないことを自分は知っている可能性があるし、他者にとって知っていることを自分は知らない可能性がある。
その個々の知る領域を会話の中で発見し、共有する。それにより、推しの知る領域を広げていくことができる。知識の増殖を図ろうとすることで、推している実感を得ることができる。
知識欲というのは人間にとって重要な欲望である。もちろん何でもかんでも知ろうとする人間もいないわけではないが、自分が好きである分野や事柄についてはもちろん自分はより深く、多くのことを知りたいと願う。
その知識欲を満たしてくれる存在こそが他者である。そこに他者の存在意義があるのではないか。
共同体を形成することで、さまざまな他者との繋がりを作ることができる。そうした様々な他者同士で、前述した「知識領域の共有」を行う。他者がいればいるほど、その共有の領域は広がっていく。
知識だけではない。人間というのは、「それについてどう考えているか」という思考も多種多様である。
万人が一様な考えを持っているはずがない。何をどう捉えて、どう考えているのか。そうした「思考領域の共有」をも、他者との繋がりの中で行うことができる。しかし言ってしまえば、他者の思考領域を知るという点では知識領域の共有ではある。
思考領域の共有は、自分とは異なる見方を自分に提供してくれる機会を与える。
例えば、同じ推しをもつAとBについて考えてみる。推しがソロデビューを果たし、新しいEPを発売し、それに続いてすぐにアニサマに出ることについての議論をするシチュエーションを想定しよう。(誰のことを想定しているかは、さすがに分かるはずである。また、自分がどちら側であるかという話ではない)
Aは、それについてこう語る。
「ソロデビューをしてすぐにアニサマに出るなんてありえない。実績を重ねていない現状で、すぐにアニサマという大舞台に出るのは、他の出演者の出演機会を奪うことにも繋がりかねない。推しが悪いわけではない。事務所の力が強いのかは知らないが、このようなやり方には大きな疑問がある。」
Bは、それについてこう語る。
「出演は不自然なことではない。ソロアーティストデビューをすることは、推しにとっては思っていなかったことである。そのチャンスを利用しない手はないはずであるし、アニサマに出られるというのはそれまでの過程があってこそ。直接的に言えばAqoursキャストという箔がついているからである。
キャストとしての実績を考えれば、ソロアーティストデビューから間もなくして出演というのは不思議ではない。」
AはAで、BはBでそれぞれ反対の考え方を持っている。Aは否定的に、Bは肯定的に捉えている。人間は、一度持った考えはそう簡単に変えられないし、別の角度から検討することは少ない。
そうであるから、AとBの議論は、双方にとって思考領域を広げている。
この思考領域の拡張は様々な見方を自分に提供する。様々な角度からものごとを検討し、推しについての理解を深める。こうした活動こそが、「推している」という実感を自らにもたらすのでは無いだろうか。
共同体としての善は、ここに存在していると考えられる。
共同体に属するからこそこういう活動が可能であるし、ロゴスによって共同体が成立するということを考えれば、こうした活動こそが共同体の成立に大きく寄与している。
そこで、こうした活動を望むオタクと望まないオタクがいることを考えなくてはならない。
望むオタクというのは、他者との関わりに積極的なオタクである。では、そのようなオタクはどう考えているのだろうか。オタクに限った話ではないが、そのような人の考え方を、前述したような領域的な考え方とは異なる角度から検討してみたい。
https://s.webry.info/sp/charm.at.webry.info/201004/article_12.html
このようなページを見つけたので、このページから色々と考えていくことにする。
他者との関わりに積極的な人というのは、基本的に「能動的な目的志向の意識+自己肯定感」を持っていると考えられる。
能動的な目的志向の意識、というのは自分から話すことで、その会話の目的を達成することを目指す意識のことであると解釈できる。
逆に言えば、このような意識がある人間が他者との関わりに積極的である。
帰属意識という点で言えば、基本的にこのような人は、むしろ「帰属意識」をそれほど持っていないのではないだろうか。どのような場所に所属しているのか、帰属しているのかというのをわざわざ意識しなくとも、自然とその人を中心とした人間どうしのネットワークを形成することができていて、その中心にはその人がいる。
帰属意識を強く意識してしまう人は、「ある集団に帰属しなくてはならない」ということが言えるかもしれない。実際に自分がそうであって、ツイッターのタイムラインが分かりやすい例である。
例えば、Aがツイートをする。そこにBがリプライを送る。そこで「AとBのやりとり」が始まる。もしそこに横からC,Dと言った別の人が会話に混ざったとする。そうすると、そこに「Aを中心としたコミュニケーションの括り」が生まれる。「A界隈」と名付けてみよう。また別のAのツイートに反応して、別のE,Fと言った人が(既存のA〜Dの場合ももちろんあるが)エアリプなどを打つ。そのE,FとFFであれば、その元のツイートも、それに対するエアリプも見えてしまう。こうした別ケースを「A'界隈」と名付けてみる。A界隈にしてもA'界隈にしても、自分から見れば「Aを中心としたコミュニケーションの括り」である。そうしたものに、自分が入っていけない話題(たとえば知らない分野の話題だったり、好きな人やものの話題だが自分には当てはまらない部類)であれば、そのコミュニケーションには入っていけない。
しかし、このような事態が続けばいつまでもそうしたコミュニケーションは形成できないし、そうしたコミュニケーションという集団に帰属することができない。
この思考こそ、帰属意識がもたらすジレンマであろう。つまり、「帰属したい」と願う気持ちが「帰属できていない自分」に対して攻撃してくるのである。
では、なぜそうした思考に陥るのか。
ツイッターは特に「匿名性」が大きなポイントであり、その匿名性があるからこそ支持されてきた。特に日本においては。
しかし、「匿名性」というのはいわば相手の顔が分からないことを意味している。見知らぬ人とコミュニケーションを取ることには限界がある。相手の素性がわからないからであり、相手がどのような人間なのかがわからないからである。
だが、本質はもっと別のところにあるような気がしてならない。それは、「相手がどのような反応をするのか分からない」ところである。
会話というのは、無論2人以上その場にいないと成り立たない。自分が相手に対して投げかけて、相手が応答する。そこで考えてほしい。自分は相手の「言葉」のみに対して応答しているだろうか。「反応」を確認しながら応答しているのではないか。
簡単な例を挙げる。たとえばAとBで会話をする。
A「〜は...だと思う」
B「いや、〜ではないか?」
A「たしかにそのような考え方もできるが...」
ここでBの立場に立つ。Aがもし「怒っている」ならば「たしかに」や「できるが」に強調が置かれる。Bは「Aはこの主張を簡単には曲げないだろう」と思うわけである。しかし、Aがもし「悩んでいる」ならばどうだろうか。その場合、強調が置かれるポイントが存在しないのではないだろうか。そうすると、Bは「自分の主張でAの考えが変わるかもしれない」と思うわけである。
前者と後者で、その後のBの対応は必然的に変わってくる。
帰属意識がツイッターというSNSにより作られる共同体の中に存在しているのは、オタクの間ではある種当たり前のことだ。
理由は明白。オタクはツイッター利用率が半端ではなく高い。
いまや2chで...というより、オタク同士でのコミュニケーションの場はツイッターである。
ツイッターでやり取りをかわし、たまたま同じイベントに参戦するときに「じゃあ会いますか」という話になる。
ツイッターのTLというのは直に他人のやりとり、会話が見える。ただ、そこにもある種のジレンマを引き起こすリスクがある。
「言語ゲーム」をご存知だろうか。オーストリアの哲学者、ウィトゲンシュタインが提唱した概念だ。
言語ゲーム(英語: Language-game)とは、後期ウィトゲンシュタインの基本概念。彼は後期の主著『哲学探究』において言語活動をゲームとして捉え、言葉の意味を外延(対象)や内包(共通性質)ではなく、特定のゲームにおける機能として理解すべきことを提唱した。
要は、同じ言葉(例えば「おおさか」)だが、文脈で複数の意味に捉えられるような話である。
TL上で、自分の知らない言葉が発せられていたら「なんだこれは」と思う。しかし、もしそれが共同体内でのみ通用する言葉だったらどうなるか。
疎外を感じるのである。
自分の知らないところで同じ推しをもつ他人同士が仲良くやっている現実が許せない。だが、その意識を引き起こすのは紛れもなく、「仲良くやる」相手がいない自分自身に他ならない。
長々と書いてきたが、そろそろ締めたいと思う。
言いたいことは、「帰属意識を気にしたら負け」だということだ。
オタクに限ったことではないが、友達が多い人間を友達が少ない人間は羨むだろうか。
最近は孤独であることは問題ではないといううっすらとした意識が社会に浸透しているような気がする。孤独であること、ソロで生きていること。それに満足できる人間が増えるのは自分はいいことだと思う。
ソロで生きていれば、他人の考えや意見に干渉されない。しかしそれは自分の意見の絶対性を自分自身で高まるという諸刃の剣でもある。
オタクはとかく共同でいることを求める。共同でいることはいいことだ。先程も述べたような思考領域の共有も叶うだろう。
しかし、共同であらねばならない法はどこにもないのである。
たしかにそこに物寂しさを感じることはあるだろう。ならば、勇気を出して少しリプを送ったりしてみる。FFで同じ推し、その中でやり取りをしたい人間を最初から拒むような人間とは関わらない方がマシである。
帰属していることで安心感を得たい心理は十分に理解できる。自分がそうだからだ。
しかし、何かのグループに属することは、かえってそのグループに縛られることにもなる。適度な距離感というのがオタクには必要ではないか。近すぎず遠すぎず。
それはオタク同士に限った話ではなく、推しに対しても同じである。
最初に書いたが、このたびBDイベが当たった。これに参加して、推しに対してどのような心の揺れ動きがあるか。何か心の動きがあるのか、ないのか。少し楽しみに待っていようと思う。
ジェラシー
人間は誰しも、ジェラシーを感じるものだと思う。
幸福な人間を見て、妬んでしまう。
当たり前の感情。そんなのを否定する人間は人間ではないと思う。
人生は上手くいかないことだらけ。人生なんとかなる、と言えばそうかもなとは思うが、上手くいってる人間はなんとかしようとしなくても自然になんとかなっている。
だから、「なんとかなる」はある種の救世の命のようなものであると確信している。
自分は自分に自信が無い。
自信が無いからこそ、周りを見る。
周りを見ると、楽しそうな人間、嬉しそうな人間、悲しそうな人間、辛そうな人間、色々な人間がいる。
自信が無い、ということを自覚したら、それは自分の視界にバイアスをかける。
嬉しそうな人間は濃く見える。悲しそうな人間は薄く見える。
嬉しそうな人間は自分を好いている。楽しそうな人間は今の自分自身を肯定している。
心の奥底で引っかかるものがある。釣りと同じで、底に引っかかったら心は地上に戻らない。引っ張るのは自分自身だからだ。
嬉しそうな人間、楽しそうな人間というのは自分にないものを持っている。ギャップを埋めるために適応機制を働かせようとする。その働かせ方こそが当人の人格を形成するための引き金となっている。
僕は、純粋に、「ジェラシー」を感じる。
画像は@shinonome_1rさんから。
この画像で少し心が救われました。
ありがとう。
おかげさま
Aqoursのキャストを見て「自分とはなんか違う」と思う時がある。
しかし、本当にそうなのだろうか。
その「なんか」とはなんなのか。
キャストは、Aqoursのライブやイベントに向けてひたむきな努力を重ねている。そして、見事にそれを実現させ、ファンを感動させたり喜ばせたりする。
それはまさしく尊敬に値することだ。しかし、それが「違う」に結びつくのだろうか?
一般的に、「何かに向けて努力する」というのには職業や身分の差はないはずだ。だが、表に出る職業というのは兎角そういう「努力」が見えやすい。多くの人から「この人はこれだけ努力したんだ」と思われるから、「すごい」に繋がるのではないだろうか。
そして、その努力の過程にはどんな苦労があったのかを知ることは不可能だ。だから、それが「なんか」として表れるのだろう。
しかし、だからといって「自分とは違う」という言葉が「自分よりすごい人」と脳内変換されてはいけないのではないか、と思う。自分を無意識に下に見ているからだ。いわば、自分を自分でdisっている。
そういうネガティブな思考はやめないといけない、と僕は思っている。「目に見えない努力」が多くの人に見られる職業なんてたかが知れている。むしろ、「影でささえる人」というのはそういうのがとにかく目に見えない。
ライブやイベントで「裏方」と呼ばれている人は、それらの成功に向けて「努力」している。Aqoursで言えば、キャストを立てるお手伝いをしていたり、舞台設営や、運営をしている人達の事だ。キャストを見て「すごい」と思う裏にそういう人達がいるのを、果たして僕は分かっているのだろうか。目を向けているか。そういう人たちをどういう風に呼ぶのか。
「おかげさま」という言葉がある。日本らしい言葉だな、と思う。日本人は「目に見えないもの」を重んじる。マナーにうるさいのがその典型だが、やはりそういうのは「相手」がいて初めて成立するもので、自分1人では成立しない。
おかげさま、というのは漢字で書けば「お陰様」だ。陰にいる人に「お」や「様」という敬称をつけている。つまり、「裏にいる人たちを大切にしている」ことの表れだ。
自分が日々を安寧に生きることが出来るのも、キャストが舞台で光り輝けるのも、Aqoursが0から全国優勝を果たしたのも、「お陰様」がいたからではなかったか。
そういう事実を無視してキャストという表立ったものにばかり目を向けて「すごい」とばかりいうのは、「お陰様」に失礼ではないのか、と思うのだ。
大切なのは、「すごいと思うな」と言っていることではない事だ。その前、「そういう事実を無視して」のところ。ここを噛み締めながら見なければいけない。
毎日健康に生きられる裏にいるのは誰なのか、大きい会場でキャストが輝いている裏にいるのは誰なのか。なにも僕だけで人生をやっているわけではないし、キャストだけでラブライブをやっているわけではない。2つめの論点はキャスト自身が1番よく分かっていると思うが、1つ目を僕自身は分かっていただろうか。
そうしたことにもふとした時に目を向けて、心の片隅で「お陰様」を尊重しなくてはならないのではなかろうか。
そんなことを、唐突に思った次第である。