未来進行形

僕の好きなことや気になることについて、色々です。

ジェラシー

人間は誰しも、ジェラシーを感じるものだと思う。

 

幸福な人間を見て、妬んでしまう。

 

当たり前の感情。そんなのを否定する人間は人間ではないと思う。

 

人生は上手くいかないことだらけ。人生なんとかなる、と言えばそうかもなとは思うが、上手くいってる人間はなんとかしようとしなくても自然になんとかなっている。

 

だから、「なんとかなる」はある種の救世の命のようなものであると確信している。

 

自分は自分に自信が無い。

 

自信が無いからこそ、周りを見る。

 

周りを見ると、楽しそうな人間、嬉しそうな人間、悲しそうな人間、辛そうな人間、色々な人間がいる。

 

自信が無い、ということを自覚したら、それは自分の視界にバイアスをかける。

 

嬉しそうな人間は濃く見える。悲しそうな人間は薄く見える。

 

嬉しそうな人間は自分を好いている。楽しそうな人間は今の自分自身を肯定している。

 

心の奥底で引っかかるものがある。釣りと同じで、底に引っかかったら心は地上に戻らない。引っ張るのは自分自身だからだ。

 

嬉しそうな人間、楽しそうな人間というのは自分にないものを持っている。ギャップを埋めるために適応機制を働かせようとする。その働かせ方こそが当人の人格を形成するための引き金となっている。

 

僕は、純粋に、「ジェラシー」を感じる。

 

画像は@shinonome_1rさんから。

この画像で少し心が救われました。

 

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ありがとう。

おかげさま

Aqoursのキャストを見て「自分とはなんか違う」と思う時がある。

しかし、本当にそうなのだろうか。

その「なんか」とはなんなのか。

 

キャストは、Aqoursのライブやイベントに向けてひたむきな努力を重ねている。そして、見事にそれを実現させ、ファンを感動させたり喜ばせたりする。

それはまさしく尊敬に値することだ。しかし、それが「違う」に結びつくのだろうか?

 

一般的に、「何かに向けて努力する」というのには職業や身分の差はないはずだ。だが、表に出る職業というのは兎角そういう「努力」が見えやすい。多くの人から「この人はこれだけ努力したんだ」と思われるから、「すごい」に繋がるのではないだろうか。

そして、その努力の過程にはどんな苦労があったのかを知ることは不可能だ。だから、それが「なんか」として表れるのだろう。

 

しかし、だからといって「自分とは違う」という言葉が「自分よりすごい人」と脳内変換されてはいけないのではないか、と思う。自分を無意識に下に見ているからだ。いわば、自分を自分でdisっている。

 

そういうネガティブな思考はやめないといけない、と僕は思っている。「目に見えない努力」が多くの人に見られる職業なんてたかが知れている。むしろ、「影でささえる人」というのはそういうのがとにかく目に見えない。

 

ライブやイベントで「裏方」と呼ばれている人は、それらの成功に向けて「努力」している。Aqoursで言えば、キャストを立てるお手伝いをしていたり、舞台設営や、運営をしている人達の事だ。キャストを見て「すごい」と思う裏にそういう人達がいるのを、果たして僕は分かっているのだろうか。目を向けているか。そういう人たちをどういう風に呼ぶのか。

 

「おかげさま」という言葉がある。日本らしい言葉だな、と思う。日本人は「目に見えないもの」を重んじる。マナーにうるさいのがその典型だが、やはりそういうのは「相手」がいて初めて成立するもので、自分1人では成立しない。

おかげさま、というのは漢字で書けば「お陰様」だ。陰にいる人に「お」や「様」という敬称をつけている。つまり、「裏にいる人たちを大切にしている」ことの表れだ。

 

自分が日々を安寧に生きることが出来るのも、キャストが舞台で光り輝けるのも、Aqoursが0から全国優勝を果たしたのも、「お陰様」がいたからではなかったか。

 

そういう事実を無視してキャストという表立ったものにばかり目を向けて「すごい」とばかりいうのは、「お陰様」に失礼ではないのか、と思うのだ。

大切なのは、「すごいと思うな」と言っていることではない事だ。その前、「そういう事実を無視して」のところ。ここを噛み締めながら見なければいけない。

毎日健康に生きられる裏にいるのは誰なのか、大きい会場でキャストが輝いている裏にいるのは誰なのか。なにも僕だけで人生をやっているわけではないし、キャストだけでラブライブをやっているわけではない。2つめの論点はキャスト自身が1番よく分かっていると思うが、1つ目を僕自身は分かっていただろうか。

そうしたことにもふとした時に目を向けて、心の片隅で「お陰様」を尊重しなくてはならないのではなかろうか。

 

そんなことを、唐突に思った次第である。